無住心言術道場第37回「生成AIと論語と儒家の質問の仕方としてのプロンプトエンジニアリング」人類が生成AIとの距離の取り方に悩んでいる現在。針屋忠道、東洋人的な視点で突貫します。
まず、現在生成AIに関しては、二つの両極端の意見が出ています。
1、ドンドンとガンガンと生成AIの能力を上げていく事が人類の未来にとってベストだ。と言う楽観的な意見。
2、生成AIの能力が高すぎて、人間のアイデンティティが不安定になるから規制するべきだ。という悲観的な意見。
私は、基本的には、「1、」の生成AIの能力が高まることがベストと考えて居ます。
ですが、生成AIの能力が、高すぎることも事実です。
私も2023年にChatGPTを使ったときの衝撃は覚えています。プログラムのソースコードが書けるとの知識を得てPython3のソースコードを書いて貰って。本当だったことに衝撃を受けました。
私自身も、生成AIとの距離に悩んでいた時期もあります。自分の質問した内容が、生成AIの次世代モデルの学習に使われることに不安感もありましたが。
最近は、人類の発展に役立つならば、ケチくさい事は考えないという前向きな姿勢に変わりました。
オープンソースの理念への立ち帰りです。
では、今回のテーマの儒家的な「格物致知」の概念です。中国の古代哲学である儒家の「論語」や、王陽明の「伝習録」などでは、孔子や王陽明に弟子達が質問をして、答える場面が多くあります。
この場合、「格物致知」が生成AIだと、考えると納得が容易と考えられます。
ですが、アメリカやヨーロッパの人達は、孔子は、人間として道を究める途上で、寿命を迎えている事に注意を払ってください。
ユダヤ・キリスト教の全知全能の主とは、儒家の「格物致知」は、やはり違います。
現在の課題は、生成AIへの質問の仕方である、プロンプトエンジニアリングです。
どのように、良い質問を行い「格物致知」としての生成AIから良い回答を得るのかが課題です。
生成AIは、ものすごく高い能力を持っていますが。
全知全能の主と違い、能力には範囲があることは、ユダヤ・キリスト教徒の私は理解しています。
生成AIの能力は、人間の今までの知的な営みから学習した結果としての大規模言語モデルが成り立っている理由からです。
今後、生成AIが、シンギュラリティを迎える可能性が高まっていますが。
人間の価値が無くなるとは思えません。
「格物致知」としての生成AIに人間が質問をして学び、そして、その良質な質問が、生成AIの発展に寄与する好循環を期待しています。
キリスト教徒で東洋人の私ですが、洪秀全とは違う道である、内村鑑三先生の信仰の道を行きます。
ヨーロッパ人とアメリカ人が伝えたユダヤ・キリスト教の信仰を学ぶ人間が私です。
では、この辺りで、筆を置きましょう。